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創立からのあゆみ


Ⅰ、はじめに
Ⅱ、誕生まで(胎児期)
Ⅲ、幼年期(波乱期) 1 ~  5年
Ⅳ、児童期(忍耐期) 6 ~ 10年
Ⅴ、少年期(成長期) 11 ~ 15年
Ⅵ、青年期-1 16 ~ 20年
Ⅶ、青年期-2
Ⅷ、壮年期-1 21 ~ 25年
Ⅸ、壮年期-2 26 ~ 30年

Ⅰ、はじめに

 宮城県ボランティア連絡協議会が昭和51年に設立され、本年で30周年を迎えることとなりました。多くのボランティア実践者一人ひとりが力を出し合い協力しあってきた結果、市町村の93%の組織加入率となって現在に至っております。一人のボランティアの私事から始まった運動も、実を結び大きく羽ばたけるように成長してきました。この30年間、いろいろなことがありました。本会が、今後より発展し成熟していくためにも成長記録を残しておきたいと思います。

Ⅱ、誕生まで(胎児期)

(1)動 機

 昭和48年頃までは、県内はおろか、仙台市内で活動していたボランティアグループの横のつながりや、相互の情報交 換などといったものは皆無であり、互いに相手の存在すら知らない状態でした。わたし個人のことで恐縮しますが、青年赤十字奉仕団でボランティア活動を続け、特に、サークル活動としては最悪の状態(2年間に40数名から4~5名に激減)の中でリーダーをしている時、他団体のボランティア仲間のことが気になってきました。
その理由として、
①自らのリーダーとしての能力・力量を知るが故に、「他力」を活用したい。
②同じ悩み・問題を持つ仲間同士互いに助け合い、協力しあったらより効果的にグループ運営・活動ができるのではないか。
③いくら立派なリーダー、優れたメンバーが多数いるグループでも、活動範囲は時間的空間的に限定(点活動)される。
④ボランティア活動をいくら一生懸命行っても、治療的であり、原因を発見し予防的活動をしなければ、「焼け石に水」であり、多くの人々の福祉意識の向上がなければ、ボランティア活動の展開は無味乾燥になってしまう。
 宮城県青年赤十字奉仕団の中で優れた指導者の下に、個性を生かしたリーダー10名を有し全国組織の中では、名を知られたグループで活動し、全国の仲間活動状況を知ることが出来ました。それは、一人よがり、一人の活動空間の小ささ、活動分野(老人・子供・障害者等)および内容の複雑さ、そして、仲間の多さとその素晴らしさを体験学習することが出来ました。その下地があってか、苦しい時の逃げ道的解決法として「宮城県にボランティアセンター設立を」というものを考え出しました。ついに意を決し、「ボランティアセンター設立趣意書」を書き、県庁に行って知事や福祉関係の部課長さんに提出し、その反応をみました。(昭和48年1月30日)

(2)「仙台ボランティア協議会」結成

 趣意書の反応は、予想通り何もありませんでした。ただ、知事秘書課の関係長(当時)さんが、熱心に話を聞いてくださり「とにかくボランティアの組織が必要最低限の条件になる。ボランティア組織ができた後に、ボランティアセンターという話が出てくる」という、助言をいただき、励まされました。その後、宮城県社会福祉協議会(県社協)、仙台市社会福祉協議会(市社協)、仙台市役所など社会福祉関係機関に足を運び、とりあえず仙台市内のボランティアグループの名簿を作りました。そして、「ボランティア団体間のつながり(連帯)の必要性」を訴えた文章を各グループリーダー宛に送り、集まってもらって話合いました。宮城県に「趣意書」を出してから1年が過ぎました。この間に「市内のボランティアグループの現状では、絶対に組織作りは無理だから努力する分、無駄だからやめなさい」という助言者もおりました。が、それが反発となって知人の他グループのリーダー2~3人に協力してもらい、組織作りの方向に話を持っていきました。数度の話し合いの後、昭和49年6月30日(日)、「仙台ボランティア協議会」を結成しました。本当は、「宮城県ボランティア協議会」としたかったのですが、仙台市内だけのグループの集団だったし、協議会として力をつけ他市町村のグループ加入が増えた時点で名称変更しようとしていました。参加グループは、24団体のうち5団体でしたが、「ボランティア育成」を兼ね会員以外のボランティアグループにも門戸を開放し、学習会・情報交流会や仙台市長との話し合い(その結果、東六番丁コミュテイーセンター内に「ボランティアコーナー」ができた)などをしました。仙台市で力をつけて、県段階の組織を作ろうと考えていました。昭和50年5月、県社協主催「ボランティアのつどい」の席上、突然「宮城県ボランティア協議会結成決議書」が提案されました。これにびっくりした仙台ボランティア協議会の役員は、「ボランティア団体の組織は、ボランティアの手で作るから」という申し入れを県社協に行いました。その結果、一年以内に県段階のボランティア組織をつくらざるを得なくなりました。

(3)宮城県ボランティア大会から

 「宮城県ボランティア連絡協議会」設立まで県社会協との約束を実行するにはどうすればよいのかと話し合った結果、仙台市内以外にボランティアグループとの接点がないので、その布石として「宮城県ボランティア大会」を開くことになりました。昭和50年12月14日、仙台ボランティア協議会、県社協を含め八団体主催の「宮城県ボランティア大会」を県社会福祉会館にて開催しました。組織作りを意識しての大会でしたので、雰囲気もボランティア組織の必要性が強調され、最後に「準備委員会」の発足が提案されました。昭和51年に入って、在仙グループを中心に幾度か準備委員会が開かれ、県段階のボランティア組織としての性格・機能・名称・組織体制などが話し合われ、会則も作りました。続いて、役員の人選、創立総会内容及び日程の決定、案内状の作成など準備しました。準備委員会の討論の中でも問題になったのは、組織体制は下部組織ができ、順次上部組織が出来るのが本来なのに、ボランティアの場合は、逆の組織作りになるということでした。
しかし、まだまだボランティアに対する意識や認識がない状態での組織作りになるので、ボランティア活動推進の啓蒙をする役割も含め、早期結成は、意義あるものと合意しました。そのため、5年間をメドに暫定組織体制とし、個人からグループ・団体、県段階の組織を持つ団体まで、その組織体制の別なく直接会員とすることにしました。

Ⅲ、幼年期(波乱期)

(1)「宮城県ボランティア連絡協議会」設立

 昭和51年4月25日(日)、県社会福祉会館5階大会議室にて、県下から130余名のボランティアが参加し、結成総会が開かれました。山本県知事と県議会議長(代理)・県社会福祉協議会事務局長のご祝辞をいただき、多くの祝電を披露した後、設立経過報告、会則・事業計画・予算・役員の選出等の討議を経てスタートしました。多くの仲間や知事から大きな期待を背負わされた役員は、全員宿泊して年間活動プログラムを立てました。
役員は、所属サークルの現リーダーでもあり、活動分野(老人・障害者・児童等)が異なっているし、関心ある事柄にも相当な違いがありました。活動分野が違うグループの人達が、一緒に何かをやるということは、かなり冒険だったようです。同一歩調を取るため、十分議論を尽くしておかなければなりませんでした。2ヶ月に一度の予定が、毎月日曜日に4時間以上もかけてあらゆる問題を話し合いました。事業予算は、収入予定として会費がありますが、個々のサークルとして活動費に四苦八苦しているとき無理に徴収もできず、事業費は有って無きのごとくです。第2回の「宮城県ボランティア研修会」を開催したときは本当に心細いものでした。運営費・通信費など、県ボランティアセンター負担でした、広報紙「みんなの手」発行は、あるとき払いで印刷し、送料がないので、市町村社協の方が来たときに手渡しで配布しました。なお県ボランティアセンターは、当会が設立する直前の昭和51年4月1日に県社協内に設置されました。

(2)事業資金集め

 事業資金がほとんど無いので、苦し紛れに「賛助会員制度」を考え実行しました。もちろん、お金集めだけが目的でなくボランティア活動をしってもらうことと、自らの存在をPRすることも兼ねていました。「賛助会員カード」を作り、芳名簿に山本県知事と県社協会長のあいさつ文をいただき、会長名でお願い文を載せ、県知事、県議会議長、県議員会派(自民党・公明党)、県町村長会、県市長会、仙台市長などにお願いに行き、賛助会員になっていただきました。さらに、多賀城市の仲間が多賀城市長さん始め15名の会員を募ってくれたり、東北電力から特別に寄付をいただきました。個人では、多賀城市の青木さんから寄付をいただき、12月末までにこれまでの借金を精算し、次年度に繰り越しができるまでになりました。この「賛助会員制度」も、役員の中から批判が出て中止せざるを得ませんでした。それは、ボランティア活動の本来的意味が無くなるとか、議員個人からお金をいただくのもおかしいし、お金集めの県ボランティア連絡協議会になり、活動ができなくなるとの理由からです。当然、県(行政)から助成金を出そうかとの話にも、行政の下請け機関になるからと断ってしまいました。資金が無くとも「清く正しく」活動するのがボランティア精神だったのです。

(3)ボランティアブーム

 昭和48年のオイルショックは、高度経済成長を続けてきた日本も「ばらまき福祉」といわれるような「お金で解決」方式の福祉行政を困難にしてしまいました。「財政再建」「福祉見直し論」がささやかれ、その解決策として昭和50年頃より、全国的に行政指導の「ボランティア活動育成事業」がいろんな名目で出てきました。マスコミもこの動きに同調したため、全国的に「ボランティアブーム」と呼ばれる社会状況をつくりだし、1年もしないうちに「ボランティア」という言葉が、社会の隅々まで広がりました。今までボランティア活動に関係する担当役人に相談行っても「ボランティア?」といって相手にもしてくれなかったのに、行政指導のボランティア活動推進が行われるようになってからは、「ものわかり」がよくなりました。ボランティアブームは、ボランティア活動に無関心だった人々に大きな刺激となりましたが、ブームで終わったようです。この間に、県内7地方社協内にボランティア・サブセンターが開設され、非常勤のボランティア相談員として配置されたことで、各地に「〇〇ボランティア連絡協議会」「〇〇町(市)ボランティア友の会」が結成されることになりました。ボランティアブームに対して私たち役員は、その対応に激論を戦わしていました。ブームに関係なく当初の計画通り事業を展開して行くか、ブームで社会状況が変わったのだから、軌道修正して進めるべきだという活動推進方法での意見対立です。どの方法でも、役員の活動費はすべて自己負担という状況では同じだったのでしょうが、みんな真剣でした。

(4)組織体制作り

 4年目は、副会長の堀江さんが会長になり、各地に点在するボランティアグループの組織づくりのための運動をすることになりました。県ボランティアセンターの事業に協力しつつ、目的達成(本来の連絡協議会の組織体制づくり)のために動き出しました。会員代表者会議を開くと「会員のメリットはなに?」「魅力ある県ボラ連協は?」といわれました。では、「だれがその要望を受け止め、何をどのように計画し実行すればよいのか。何のための会員なのか。」と、相当悩みもしました。しかし、当時の組織体制・資金・人材等では、県内のボランティア活動状況に対応することは不可能でした。当会は、「タテ」の組織作りでなく「ヨコ」の仲間づくりで、「点から線」、「線から面」へのボランティア活動の「輪」の広がりを求め、より住みよい社会づくりのための足場を仲間同士でつくって行こうとしてきたのです。

Ⅳ、児童期(忍耐期)

(1)資 金

 事業資金は、行政からの資金援助を断り、かつ、賛助会員の募集も中止したため非常に窮屈な状態が長く続きました。昭和60年10月からの「ボランティア基金」運用の助成金を受けるまでは、広報事業に対する県共同募金会からの助成金とボランティアセンターから事務的なもろもろの経費を負担していただいていました。会費は、年間5万円弱程度です。広報費を除いた事業費は、20万円余でしたので、役員の活動経費はほとんど自己負担していました。そのため、必要性を感じても新たな事業を行うことができず、焦りも感じていました。資金なしでは、何も出来ないと言う事から昭和55年の暮れに、事業資金捻出の方法として「県Ⅴ連協事業基金」を始めようかとの提案があり、いろいろな案が考えられました、その1つに一定のお金を一定期間あずかり、元本を返してその利息を寄付していただく方法(現在、郵政事業庁が「国際ボランティア貯金」としてじっししている)も計画しました。そんな折りに、宮城県高齢者問題懇談会が宮城県に対して「ボランティア基金」の設置を提言しましたので、その経過を見ようと計画の実施を見合わせていました。同年6月の県議会で「ボランティア基金」の設置・造成が提案・可決されましたので「県V連協事業基金」の計画は中止し、その実施に全面的に協力して行くことにしました。後に、「ボランティア基金」造成(後に運用)委員会にボランティアの代表として参画しました。

(2)事 業

 昭和56年は「国際障害者年」にあたり、宮城県において初めて民間福祉関係機関が一堂に会し「国際障害者年宮城推進協議会」を組織しました。当会もメンバーとして、行動計画への提案・各種行事へ参加しました。特に、「黄色いハンカチ運動」「みやぎグリーン・マップ」(車いすガイド)の製作には、環境委員として参画しました。あらゆる運動は、「人材」抜きで考えられません。10年・20年先の社会状況を予測し人材育成をしなければなりません。そこで「ボランティアリーダー研修会」を再開(昭和59年2月)しました。活動実践に即した多少難しい内容(中級程度)で、学習が中心です。受動的活動から能動的・自主的活動へ、しかも、大多数の県民を巻き込むボランティア運動の中心的「人材」を育てて行く重要な研修会です。特に、リーダー研修会を開くにあたっては、役員の中に「時期尚早」の意見が強かった。リーダー研修会を開ける力、足腰がまだないとの判断でした。「リーダー育成は、10年以上たたないと本当の成果は分からない、今年から始めなければ」と、「にわとりと卵」の関係を例に強引に主張し、開催を認めてもらいました。確かに、県ボラ連協には開催資金も能力もありません。講師には、個人的に面識のある東北福祉大学大学教授塚本哲人氏(現顧問)、キリスト教育児院の大坂誠氏(故人)、東北放送の小島哲郎氏、筑前甚七氏等でした。講師料(無かった)の話もせずに講演をお願いして引き受けていただいたもの(後で、県社協に出していただいた)でした。これまで、一度も講師謝礼で困ったことは無く、お世話になった講師の方々に本当に感謝しています。昭和59年7月から「ボランティア基金」造成に本格的に参加するためボランティア・シンボルマークをバッチにして、「1口1000円バッチ募金」を開始しました。多くの仲間から、多額の協力が寄せられました。

(3)組 織

 当会の役員・運営委員組織は、60年度から将来の組織体制を考慮して「ブロック制」とし、運営委員はブロック代表とすることに変更しました。県内の市町村において、ボランティアグループの横のつながりとして、「〇〇町ボランティア友の会」「△△地方(市)ボランティア連絡協議会」という組織が、多く結成されて来ました。しかし、ボランティア実践者は、自分たちのグループの実践活動と運営(会員の確保や活動資金の調達・活動計画とその準備)が精一杯で、友の会や連絡協議会などの運営まで時間的に無理になっています。そこで潤滑油的役割・機能に市町村の社協教職員及びボランティア相談員の方々が、この組織づくりや運営の「かなめ」となり、重要な存在となっております。

(4)運 営

 運営は、事務局を中心に行ってきましたが、役員・運営委員始め、関係者すべてボランティアグループに所属して活動していますので、常に活動を共にできません。しかも、県内各地から参加していますし、活動分野も違います。また、福祉の専門家でもありません。昭和61年8月、難問が山積みしている当会としては、ボランティア活動に精通した学識経験者やボランティア経験者を「顧問」にお願いし、逐次指導・助言をいただくようにしました。

★教育関係として
塚本 哲人氏(東北大学名誉教授 元長寿社会問題懇話会会長)
★組織関係として
亀谷 博昭氏(元青年赤十字奉仕団全国協議会長 元宮城県議会議員元参議院議員 <故人>)
★福祉関係として
阿部 守枝氏(元宮城県共同募金会事務局長)

(5)10周年記念大会

 「ボランティア基金」の運用が開始され県内各市町村で有効活用が始まると、各地でボランティアの動きが活発になってきました。宮城県ボランティア協会研修会やリーダー研修会に参加する人達も、それ以前の2倍以上になりました。年を重ねるごとにその動きが見えてきました。当会と県ボランティアセンターの10周年を記念して「宮城県ボランティア大会」を開き、ボランティア活動の雰囲気を盛り上げ、活動推進を強力に進めて行くことになりました。昭和61年11月28日には、仙台市民会館に1000名のボランティア活動実践者と活動推進関係者が一堂に会し、記念講演と式典を開催しました。大会の経費は、ボランティア基金の助成金を当てました。記念大会は、ボランティア活動推進運動の一区切りであると共に次へ飛躍するためのワンステップでもありました。

Ⅴ、少年期(成長期)

(1)10周年記念大会後

 10周年記念大会をボランティアの多くの仲間によって成功裡に終えました。この事業は、10年という節目と共に1つの役割の終焉でもありました。能力以上の期待と役割を背負い夢中で10年間も走り続け、それ以上の能力と役割は大きな負担となってきました。県V連協のリーダーの交代のよい時期でありました。昭和62年5月の第12回定例総会で,第三代会長に但木卓郎氏を選出し、飛躍を期待してスタートしました。県内各地に会長が出かけることによって町村の組織化も進み、当会に入会する数も増えてきました。また、前会長堀江一男氏は、顧問に就任していただきました。「ボランティア基金」と厚生省事業の「ボランとピア事業」の相乗効果によって、「ボランティア活動」も県内すみずみまで根を下ろし、全国的に例をみない宮城県独自の組織化が図られてきました。平成元年、会則を代議員制による総会運営と理事体制の役員、事務局に専門委員会をもうけるよう改正し、次年度より実施することになりました。

(2)事務局の部屋設置

 10周年記念大会後、県V連協に専用の事務室の必要性を確認し、県社会福祉協議会に要望してご理解とご協力で、現在地に事務室を開設していただきました。設立10年目にして活動拠点を持つことができ、役員やボランティアの仲間がいつでも集まれ、事務の仕事やいろいろな連絡ができるようになりました。昭和62年7月から非常勤の人を配置し県Ⅴ連協の事務処理を行い、研修会等の事業、特に、連絡業務をスムーズに行うことができるようになりました。事務局の拠点活動の効果は、役員や委員会活動の潤滑油的役割を果たし、県Ⅴ連協の目的達成に重要な働きをしています。

(3)委員会活動

 3年前から委員会活動をしていましたが、平成2年度より会則に基づく委員会が活動を開始し、事務局を中心に県V連協活動の柱となって来ました。
①研修委員会:県V連協の研修に関するものすべてを企画運営します。
・宮城県ボランティア研修会
・ボランティアリーダー研修会
・理事及び委員研修会
②広報委員会:広報活動全般(情報の収集)を企画運営します。
・「みんなの手」年1回 5000部発行
・「県ボラ協だより」年4回 5000部発行
・研修会等の記録担当
③財務委員会:賛助会員の募集及び県V連協会計事務の管理をします。

Ⅵ、青年期-1

(1)組織及び運営

 平成3年11月29日、仙台市泉区の「イズミティ21」を会場に創立15周年記念式典を開催し、ボランティア活動仲間に対して初めて会長感謝状を贈呈し、共にねぎらうことにしました。又、当会の活動に対して貢献してくださった役員等にも感謝の意を表しました。当会の事業に会員より要望が多く出されているようになっても、それに答えるような事業費にも事欠くようになりました。会費の改正と3年越しの後援会(初代会長、東北大学名誉教授塚本哲人氏)がようやく発足し、多少余裕ができてきました。しかし、社会の経済が低金利時代になり、資金の大黒柱ともいうべき「ボランティア基金」の配分が減少し、また苦しい事業予算に戻ってしまいました。平成5年6月に、第250回県議会一般質問で石橋信勝議員(公明)は、当会の活動を高く評価し、県の支援を訴えました。また、伊藤康志議員(自民)、相沢光哉議員(自民)も同様なボランティアに関した質問がなされました。しかし、知事の答弁は通り一遍の新鮮味のないものでした。はからずも議長は、当会顧問の亀谷博昭氏でした。この間に会員組織は、10市61町村の内1市3町を残すのみとなり、ボランティア活動内容の質的充実を求められる時代となりました。しかし、法人格の取得ができず、任意団体の体制では事業推進におのずと限度が見えてきました。平成7年1月17日未明に、「阪神・淡路大震災」が発生し、その救援・支援の中心になったボランティア活動が、多くの国民に感銘を与えるとともに、政府や行政にその低力を認識させました。その結果、各政党から「NPO(非営利組織)」法案が提案されております。非営利の市民活動を税制面からも支援(法人格が取得しやすくする)使用とするものです。当会は、法人格の取得にむけ、今後とも努力していくこととなります。

(2)事 業

 当会の創立15周年を記念し、「ふれあい」を自らのボランティア活動体験を通した内容(「Q&A」と「活動メニュー」)を役員が分担して、文献を見ないで執筆し編集して発行しました。初めての有料刊行物でしたが、県内のボランティア活動の学習書として多くの仲間に重宝されました。平成7年5月には、「ふれあい」の内容を大幅に書き換えて(入門編と災害時の活動メニューを加える)改訂版を、さらに、ボランティア活動の一助にと歌集「おもいでの歌」も同時に発行しました。「ふれあい」の執筆中に、災害時のボランティア活動の中身を整理していく中で、平時から災害時に備えた組織が必要なことを痛感させられました。シンポジウムを開いてその組織作りのスタートにしようと考え、九月に「イズミティ21」で900余名の参加を得て実施しました。災害は、いつでも襲ってくるし、その時にあわてて苦しむ事がわかっているにもかかわらず、救援・支援の組織がないために二次的被害の拡大をくい止められませんでした。シンポジウム開催から1年3ヶ月後の平成8年12月18日、「みやぎ災害ボランティアセンター」の設立総会が開かれることになりました。この設立には、当会のメンバーを中心にみやぎ生協、仙台YMCA、東北福祉大学、ボーイスカウト宮城県連盟、県社協等の他に個人の参加を得て、準備会を組織してきました。当然ながら、行政の防災担当者から設立と感動に大きな期待を寄せられております。この組織は、宮城県のボランティア活動の将来に新たな方向を与える画期的なものになっていくことと思われます。

(3)県ボラ連協後援会

 当会の資金支援のために組織されたものですが、当会の活動が目立たないため後援会会員が少なく、また、理事にお願いした方々に対してもご迷惑をお掛けしているのが現状です。しかし、ボランティア基金の果実の減少にともなう資金援助の減額は、当会の事業低下に直結しますので、その補完としての後援会から資金援助は、欠かせないものになって来ています。

(4)県社協・みやぎボランティア総合センター

 当会設立と図らずも同一時期に県社協内にせっちされました「ボランティアセンター」も、私たちが2年にわたる県の担当者への説明と阪神・淡路大震災の追い風もあり、平成8年4月に「みやぎボランティア総合センター」に発展し、事務所も新装されてオープンしました。ここにいう総合とは、福祉分野のみならず、すべての分野のボランティアを対象にしたセンターにしようというものです。高齢社会を迎え、福祉分野でいくら努力しても、すでに限度に来ている現実だからです。「みやぎ災害ボランティアセンター」の設立は、その流れの1つです。これからは各々の垣根を越えて情報を交換し合い、持てる力を出し合っていかなければ高齢社会はもちろんのこと、大災害に対処できないのです。

Ⅶ、青年期-2

(1)県民総ボランティアを目指して

 阪神・淡路大震災を経験して考えさせられるのは、すべての住民がボランティア活動に参加し共に助け合わなければ自然の大災害に対処できないということです。「みやぎ災害救援ボランティアセンター」の設立は、当会のような福祉団体のみならず教育関係、国際関係、企業関係などあらゆる団体および個人が、互いの立場を尊重しつつもてる力を共に出し合うことによって、大災害にも対処できるのです。

(2)法人化を目指して

 組織の充実を図っていくためには、事業内容と財源の確保が大切です。そのためには、法人化を目指し実現し、社会的にも認められる必要があります。連絡協議会的な事業のみならず、具体的な事業、たとえば、在宅介護活動に対する後方支援として介護用品の相談と紹介事業等です。
また、「ボランティアだから」すべて無償という認識から、ボランティアとして動けば動くほど経費がかかる現実を認めてもらうことも必要です。法人格を取得し、組織の充実を図るとともに県V連協の事務体制を確立させる必要があります。ボランティア活動の必要性は、行政の福祉施策の根底に組み込まれていることからも理解されます。それを具体的に機能させるためにも常勤職員体制の取れるようにしたいとおもいます。

(3)若年層のリーダー育成と他団体との連携

現在のリーダー育成は、若年層が参加できにくい時間帯に行われています。開催日時など、若年層が参加できるように内容等を吟味した計画を立て、長期的展望のもとに実施する必要があります。特に小・中学生及び高校生に対するカリキュラムの検討を早急に行わなければなりません。若年層のボランティア活動の体験は、社会の意識改革のベースになる大切なものです。さらに、ボランティア活動を行っている他の分野の団体との連携を図り、高齢社会の中で共に協力し合う関係を作っていく必要があります。

Ⅷ.壮年期-1

(1)組織および運営

 平成8年11月26日、多賀城市民会館で当会創立20周年を記念し「ボランティア大会」を開催しました。
 平成11年度からは、NPO法人取得後の事業になり、これまでの任意団体とは運営等が異なり、定款や細則、規程などを細く定められ、会の運営もこれら規則に沿って行われました。度内には法人としての体制整備の完了が義務づけられています。また、組織もこれまでの市町村単位の団体加入と、個人の2本立てになります。
NPO法人取得後は、事ある毎に「法人団体なのだから」が語尾についてくるようになりました。事務局員が複数いるのであれば法人運営も楽なのですが、一般事務から事業全てを一人の事務局員が仕切ることには、限度があります。その上、社会環境の変化で寄付や収益事業も困難になり、さらに平成13年度の「ボランティア基金」配分もカットされました。資金確保のために法人格を取得したのですが、平成14年度は相当の運営費の準備をしなければなりませんでした。

(2)事  業

 創立20周年事業直後の平成8年12月18日、「みやぎ災害ボランティアセンター」の設立総会を開催しました。前述のように福祉関係以外の団体をメンバーにした組織作りは、これまでの常識を超えるものでした。福祉分野、国際交流分野、生涯学習分野、教育関係、企業等などの間には見えない高く、かつ強いバリアーがあるのです。
 平成9年度からは、交流研修会とリーダー研修会に加え、その地方にマッチした企画で事業委託のような形で「一日研修会」を年3カ所で開始しました。さらに、新事業として「福祉をテーマとした演劇コンクール」を実施し、1回目は成功しましたが、2回目は応募がなく、他分野に福祉の息吹を吹きかける困難さを味わいました。
 平成10年度は、「仙台放送」を中心に上映実行委員会を作り、福祉映画「一本の手」を県内71市町村75カ所で、映画史上初めて全市町村上映を達成しました。会員の皆様の多大な協力があっての達成です。
 平成11年度は、NPO法人取得記念事業として映画「黄落」の上映を実施し多少の収益も確保しました。また、ボランティアカレッジを7回シリーズで実施し、組織運営の演習をしました。「介護保険制度」スタート実施直前のこともあり、「介護保険制度」の勉強に重点が置かれた年でもあります。
 平成12年度は、NPO法人としての事業資金配分を郵政省からありました。「寄附金付お年玉年賀葉書配分金」です。青少年のボランティア活動体験と工作教室を開講する工具一式です。また、ボランティアカレッジを県内市町村4箇所で実施し、好評を得ました。
平成13年度は、「ボランティア国際年」事業と当会の25周年記念大会も同時開催することになりました。新世紀のスタートにあたってこれからのボランティア活動のあり方を求め、青少年・学校に焦点をあてた事業を展開したいということから、宮城県と共催でシンポジウムと記念式典を開催しました。宮城県社会福祉協議会は、県内のボランティアの育成・推進機関なのですが、この式典には協力することはありませんでした。
高齢者に対する支援活動として、映画「ホーム・スイートホーム」の上映を7月から11月にかけて県内20箇所で実施しました。また、第1回全国障害者スポーツ大会が宮城県で開催されたので、メーン会場の「ふれあい広場」に出展しました。

(3)NPO(特定非営利活動)法人格取得

 10年ほど前から市民活動団体の中で始まっていた「市民活動推進法」制定の法制化運動は、阪神淡路大震災をきっかけに急展開し、平成10年3月半ばに「特定非営利活動促進法」は議員立法として成立しました。
当会は、事務局強化と活動内容の転換が切望され、その突破口に「法人化」を模索して来ました。県社協・ボランティアセンターに資金と事務所などを依存していたこれまでの体質から脱却し、独立した法人として社会的に認められないと資金確保等が困難になるという状況になっていました。
法人化の準備として出版物の収益等を積み立てていましたが、NPO法の法制化の情報が入り、法人化の夢が目前になって来ました。そしてついに、平成10年12月1日施行に向け10月18日、経済企画庁から「法人化の手続き説明会」が仙台で行われ、その中で「定款」のモデルが提示されました。
モデル定款をベースに当会の定款(案)や趣旨書等の法人申請に必要な書類をつくり、理事会に提案し、臨時総会を招集(11月20日)して法人化へ向け作業を進めました。同年12月1日に「みやぎ災害救援ボランティアセンター」と共に、宮城県内トップで法人申請書類を提出し、県の認証を平成11年3月26日にいただき、4月1日法人登記を完了しました。念願の法人化が実現し4月12日に法人設立総会を開きましたが、構成会員からは必ずしも歓迎された訳ではありません。市町村の会員の一部は、社会福祉協議会に事務局を置き全面的に依存している部分もあり、組織の中央が法人化することによる「法人対法人」の関係によるボランティア育成の在り方が懸念されたのです。さらに、名称を「連絡協議会」から「協会」に変更したことによる不安が一部にありました。しかし、事業内容の現状は「協会」的なものであり、目指す方向も「協会」的事業でないと宮城県の高齢化社会に対処できない現実もありますが、事業を通じて会員にこの事実を理解してもらう努力を続けなければなりません。

(4)県民総ボランティアを目指して

 「介護保険」に見られるように高齢化社会を迎え、これまでの福祉施策や対応だけでは、困難が予測されます。ボランティア活動にしても、これらに関心のある人だけでは高齢化社会に対処できません。同時に介護予防活動を積極的に展開して行かないと暗い高齢化社会になってくることになります。
 また、少子化・高齢化社会に対処するだけでなく、青少年問題の深刻化にも取り組む必要があります。小・中学生及び高校生の体験・経験不足から繰る種々の問題が指摘され、文部科学省も21世紀の教育改革の重点項目に取り上げています。若年層のボランティア活動の体験は、社会の意識改革のベースになる大切なものです。これらに対するカリキュラムの検討を早急に行わねばなりません。

Ⅸ.壮年期-2

(1)介護保険制度スタート

 平成12年度から「介護保険制度」がスタートし、これまでの福祉制度・仕組みが変わってきました。多くのボランティア団体は、福祉施設に活動の場を求めていましたが、「介護保険制度」によって、ボランティアが活動対象にしていた大部分が「介護保険」の対象になり、ボランティアの活動の場が減少ました。ボランティア団体は、活動の場を地域活動や在宅福祉に求めましたが、活動の充実感が弱くなってき多様です。

(2)宮城県北部連続地震

 平成15年7月26日、宮城県北部連続地震が発生し矢本町、鳴瀬町、河南町、南郷町、鹿島台町の5町が大きな被害を受けました。南郷町と鹿島台町では、地域ボランティアが大活躍いたしました。これまで「被災地住民はすべて被災者」=「要支援者」という考えで、ボランティア活動はできないと受け止められていました。南郷町ボランティア友の会では、被害の少ないボランティア会員が「南郷町災害救援ボランティアセンター」に集ってスタッフとなり、支援に訪れたボランティアと被災者との橋渡しの役割(ニーズ起し、ニーズ受付、ボランティアの道案内、被災者との事前打ち合わせ等)をして、「南郷町災害救援ボランティアセンター」の重要なスタッフの役割を果たしました。災害時における被災地住民のボランティア活動の重要性を初めて多くの人に認識させることとなりました。鹿島台町ボランティア友の会も同様の活躍をいたしました。
平成16年10月23日に発生した新潟県中部地震の各市町村に設置された「災害ボランティアセンター」では、被災地住民ボランティアがいないため、被災者とボランティアを結びつけることができず、支援に訪れたボランティアは、活動することがなく帰ったと聞きました。支援を求める被災者と支援しようとするボランティアを結びつける役割は、災害ボランティアセンターの設置と被災地住民ボランティアの協力なくしては機能しないことを実証した結果となったようです。
平成17年2月には、「災害救援ボランティアセンター設置・運営ハンドブック」(佐藤年男著)を発行し、災害ボランティアセンターの設置や運営、ボランティアの役割などを詳細に記した本を発行しました。

(3)事 業

 「介護保険制度」がスタートする平成11年度から「介護保険制度」を学習するために研修会に取り入れ、その後2回、「介護保険制度」を理解するため研修会のテーマとして取り上げました。25周年記念大会のテーマになった「青少年・学校」に焦点を合わせた研修会も開催しましたが、平成15年7月の宮城県北部連続地震を受けてから、「災害とボランティア」に焦点を合わせた研修内容を取り入れるようになりました。また、介護保険制度も5年の見直しが行われ、制度の普及・定着とともに経費負担増に陥ることから「介護予防」が取り入れられるなど大幅な改定がされました。私たちは、「介護予防」としての「高齢者の健康維持・増進」に力を入れていく必要性を認識することになり、関連の研修会に力を入れることにしました。

(4)事務局移転

 本会スタート時から宮城県社会福祉協議会の建物(県社会福祉会館)に事務局を置き、平成12年4月から事務室をみやぎ災害救援ボランティアセンターと共同で県社会福祉会館4階に賃借し活動してきましたが、平成14年4月からみやぎ災害救援ボランティアセンターが出たため、単独借用してきました。しかし、蓄えていた運営資金も底をつき、平成16年4月に始めて、民間の事務所に同居することになりました。さらに、職員を一人抱えていましたが、人件費もままならず職員不在になってしまいました。
 平成18年4月から事務局長の自宅に事務所を移し、運営費の一層の軽減を図り本会の存続を図ることにしました。運営費の確保が、本会存続の鍵となってきました。

(5)市町村合併

 運営費の基本収入の会費は、平成17年度から本格化した市町村合併に関連し、平成18年4月時点で、71市町村から35市町村に激減しました。その結果、会員数も31市町村になる可能性が出てきました。(67⇒52⇒31)

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